生まれる前の子供の人間性を奪う社会

今日、「生殖」に対する攻撃が続くのはなぜだろうか?「生殖」は受精し、生物学的な赤ん坊を出産する性的活動と定義される。ところが、「生殖」は「費用をかけても得たい利益と権力」と等しいものになりつつある。私たちの社会を見てみよう。「生殖」に対する強い影響を拡大している巨大産業。例えば、赤ん坊がIVF(体外受精)で作られる。この過程で、1つの生命を生かすために24の小さな命が死んでいく。もう1つの例:望ましい複数の胚が1つの子宮内に移植される。大きな疑問は:誰の子宮なのか?母親の子宮?借りた子宮(代理)?人工子宮?ということだ。そう、私たちはバイオテクノロジーのブレイクスルーに近づいている。体外発生、完全な体外子宮の発明が人間の生殖の本質を完全に変える可能性がある。昨年4月、フィラデルフィアの小児病院の研究者らは人工子宮の開発を発表した。

別の例:望まれない子供は中絶され、それは出産の直前まで可能である(部分出産中絶)。中絶された子供は医療用廃棄物として処分されたり、化粧品会社に売却されたり、また研究用に冷蔵保存(商品)や寄付されたりする。これらの例は、生まれる前の子供の短い旅路に待ち構えている多くの危険のごく一部に過ぎない。母親の子宮内で過ごす数ヵ月は、人生において最も危険な時期である。これらの小さな人間の大半がこの短い人生の旅を生き残れない可能性がある。

最近、胎児の密売が行われるようになった。どうしてそんなことが可能なのかと思うだろう。子供はまだ生まれていないのだから。数週間前、「Mail Online」が次の記事を発表した:『メキシコで「子宮侵略」が勃発:妊娠9ヵ月の女性を殺害し、子宮を切って赤ん坊を取り出し自分の赤ん坊であると主張していた女性を逮捕」。

わたしが驚いたのは『メキシコで「子宮侵略」が勃発』という言葉である。調べてみると、最近では、メキシコのみならず、アメリカなどの他の国でも胎児を奪う目的で妊娠している女性が犠牲になっていることが判明した。

こうした比較的新しい「胎児誘拐」の勃発は、「胎児窃盗」や「赤ん坊ひったくり」とも呼ばれている。こうした誘拐を犯した犯罪者が「子宮侵略者」と呼ばれている。これは、アメリカ合衆国などで比較的新しい犯罪のカテゴリになっている。犯罪者は赤ん坊を手元に置くか、需要が高く膨大なる利益を得られる闇市場で売却する。「胎児窃盗」はあらたな億万ドルビジネスになるのか?そう言い切るのはまだ早い。しかし、ひとつ確実に言えることは、このビジネスが栄えるためには、母親が殺されなければならないのだ。

カトリック教会は、人間の命は神聖であり、人間の尊厳は社会のモラル・ヴィジョンの基本であると宣言している。この考えはカトリック社会の教えの原理すべての基本となるものである。世界中で、生まれる前の赤ん坊が中絶、胚幹細胞研究、「胎児誘拐」という直接的な攻撃を受けており、大金を稼ぐ欲望の餌食として無垢な命にこうした戦争が仕掛けられている。生まれる前の赤ん坊を意図的に狙うことは間違いなく誤りである。カトリック教会はすべての人が貴重で、金銭よりも重要であると説いている。命の質は、その人の命と尊厳を脅威にさらすか、大切にするかで測られる。「人間は神の創造物である。人間の尊厳はその行いから来るのではなく、その存在に尊厳があるのだ。」(聖ヨハネ・パウロ2世)

沈黙が無垢な命の保護に役立つとは言えなくなっている。これらの問題に気づかないふりをして、自分たちには関係ないと思い込むことはできなくなっている。人間の最初の権利はその命である。大きさや年齢は権利の方程式に関係ない。そしてこの権利は親、社会、政府に属するものではない。この世界の一員として、私たちには命を支えることに勇気ある選択をする義務がある。いつの日か、私たちの選択に対して神に答えを求められるときが来る。

私たちが現実の一部として貧しい人、人間の胚、 障害のある人の価値を認めないと自然の叫び声を聞くのが難しくなります。 すべてが接続されています。(フランシス教皇)人生は神からの贈り物です。 その結果、すべての人間の生命は、その始まりから終わりまで神聖である。

[愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出る者で、愛するものは皆、神から生まれる、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛しためではなく、神から私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりますした。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。いまだかって神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされているのです。](1ヨハネの福音書4:7-12)

ノボトニー・ジェローム神父

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