ノボトニー • ジェローム OMI 〜 ここ数ヶ月の、いのちの問題に関する新聞や雑誌の記事、ニュースなどは余り良くない傾向を示しています。信用出来ない話しばかりが広がり、人々のいのちは傷ついています。神は次第に社会から遠ざけられており、混乱、苦しみ、隠れた罪の意識などが残されています。
今年の早い時期に例年の黙想会がありました。詩篇139が、いのちへの力強いメッセージと神の私達一人一人との個人的な関係を表していることに私は注意を喚起されました。詩篇にはとても深い意味があり、また分かり易いのです。詩篇の作者は私達に、いのち、幸福そして真理へと向かうための神の教えを示しています。そこには現代の世界にも当てはまる大変妥当な洞察が含まれています。詩篇は⑴ 神は私を知っている。⑵ 神は私とともにいる。⑶ 神は私を創られた。⑷ 神の主張は私の主張。の四つに分けることが出来ます。
偉大な神の聖性と問題だらけの私達の時代について黙想している間に、ある考えが浮かびました。「もし、神の生きた臨在のない世界は、私の人生は、いったいどうなっていただろう?どの様な選択がなされ、その結果はどうなっていただろうか?」
人生は選択の連続です。毎日、目覚めから就寝に至るまで、様々な選択がなされます。その選択とは、常に2つの道のどちらか一方を選ぶことしか出来ません。いのちへの道か死に終わる道です。
黙想会から数週間が経ち、次第に私は”いのち“の反対は”死への道”であり、それは虚無だけを残すものだと思い至りました。神を社会とその法律が作られる過程から遠ざけようとする事によって、人々は破壊と暴力と悪の道を選ぶ事になります。悪魔は人が自発的に”いのち(神)”よりも“死(無)”を選ぶのを見て喜ぶのです。
イエスは弟子達に「私は道、真理、いのちである」と話します。イエスは実にはっきりと彼が、彼だけが道であると言います。イエスは人々を聡明さにより包みます。イエスは善と悪を、あるいは良い行いと悪い行いを明確に区別します。次にイエスは「私は真理である」と宣言します。何故でしょう?彼自身が真理そのものだからです。イエスには全く悪いところがなく、間違えることもなく、つまり本物の真理だからです。そして最後に「私はいのちである。」とイエスは言います。ここでイエスは私達の最終ゴールは地上でのいのちではなく、イエスと共にある永遠のいのちであることを明かされます。現代社会は驚くべき様相を呈していますが、イエスがいてくださり、私達を助けてくださっていることに慰められます。イエスは世の光です。彼こそが世の脈打つ心臓なのです。
ジェイソン・ソロキは、その事をとても良く解説しています。「イエスがご自身を道、真理、いのちであると称されるのは、彼を通して私達の人生をより良く生きる方法を与えてくださっているという事です。日々信仰を持ってイエスに従えば、自分では決して見つけられない様な、より良い、より豊かな、より意味のある人生へとイエスは私達を導いてくださいます。」
最近のいくつかの例を通して、人がどの様にいのちよりも死を選ぶのかを見ることができます。⑴ 妊娠中絶. この妊娠中絶とは何の罪も無い人間を故意に殺すことです。胎児を殺すことは悪です。その結果は、家族の絆は弱められ、カップルは長く罪悪感に苦しみます。女性は身体的な副作用やPASS(妊娠中絶後ストレス症候群)を被る場合もあります。⑵ 安楽死. 安楽死とは痛み、苦しみあるいは単なる孤独感から逃れるために、故意にいのちを断つ行為のことです。その結果は、いのちの神聖さに対する尊敬の念は社会的に弱まり、障害者や病人は価値の低い望まれない存在として殺されます。⑶ 同性婚. 同性婚とは女性同士または男性同士の、ゲイやホモセクシャル婚としても知られていますが、病的な結婚に似た関係のことです。その結果は、生物的、生理的、心理的な男女の違いを否定し、一番大事な本来の結婚の目的である種の存続、つまり子育てをも否定してしまうことになります。⑷ 性同一性障害. 性同一性障害とは、本当の自分が持っている身体とは違うと感じる障害のことです。新しい形のグノーシス派的二元論であり、人は何でもやりたい事が出来、何が真実かを勝手に定義するので矛盾だらけになります。(”ハリーがサリーになった時:トランスジェンダーへの答え” by Ryan T. を読んでみてください。)
さらに”死への道”には人身売買、性の選別(性の産み分け)、死刑、HIV/AIDS, 気候汚染、ポルノなどがあり、まだ延々と続きます。ごく最近のものには、生まれたばかりの嬰児が手術台の上で死ぬことを許してしまう法律があります。アメリカ合衆国だけでも19の州、国のほぼ半分でこの嬰児殺しが基本的には合法化されているのです。
これらの“死への道”の行き着くところは悪であり暗闇か無です。神無しには幸福な未来は無く、大きな虚無だけが待っています。先日、私は癌で亡くなった友人の長男の葬儀に参列しました。儀式の最後の方で棺の中に花を入れ遺体の手や顔に触れて、火葬の前に別れの挨拶をする慣習があります。私は遺体に触れなくても、その冷たさを感じることが出来ました。もう、いのちが無いからです。間も無く火葬が終わり灰になりました。確かにあったはずのいのちは、もはや不在であり無となりました。
人々が社会から神を引き離す時、無だけが後に残され、そこには希望も幸せも未来もありません。モーゼは申命記の中で、神は我々の前にいのちと死を置く。モーゼは私達が生きる様に”いのちを選ぶ”ようにと勇気付けます。地上での一生は短いですから、賢明な選択をしましょう。
見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。
わたしは今日、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。
あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、み声を聞き、主につき従いなさい。
それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生き……..(申命記30・15,19-20)
ノボトニー・ジェローム、OMI
翻訳者 平塚 幽香子
英語原文 God or Nothing
God or Nothing