同性愛に関するカトリック教会の教義について

ノボトニー • ジェリー OMI – 同性愛についてのカトリックの教義は、カトリック教会のカテキズム(公教要理)や多数の権威ある文書で説明されている。カトリック教会の教義では、同性愛者の性行為は、他の婚外の性行為と同様に、罪深いものである。同性愛の志向を持つこと自体は罪ではない。

カトリック教徒はみな、特に性道徳の問題に関しては、科学は常に教会の教義を裏付けることを知っている。中絶、婚外の性交渉、ポルノ、避妊、その他の性的な罪を避ける者は、たいていの場合、そのような悪事にふける者よりはるかに幸せである。これはごく自然なことである。というのも、神は私たちが今の人生でも次の人生でも幸せであることを願っているからだ。

残念ながら、今日では、同性 愛に関するカトリック教会の教義に関し、カトリック教徒の間で大きな混乱が生じている。同性愛者のライフスタイルが許容できると主張する政治家や同性愛活動家、マスメディアの宣伝による誤った発言とは関係なく、明確なことが1つある。それは、同性愛に関するカトリック教会の教義は今後も変わらないということである。

カトリック教会は、これまでも、そしてこれからも、婚姻行為として唯一許容できるのは、1人の男性と1人の女性との夫婦間の行為である、と説き続ける。カトリックのカテキズムでは次のように述べられている。

2331番 「神はご自分にかたどって、人間をつくりだされた。。。男と女につくりだされた。」(創世の書1章27節)神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。」(創世の書1章28節)「神はアダムをおつくりになったとき、神に似せておつくりになった。神は彼らを男と女とにつくり、祝福して、つくったそのときに「人間」と名づけられた。」(創世の書5章1-2節)

同性愛に関するカトリック教会の教義は常に明確に説かれてきた。

2357番 同性愛とは、同性の人に性的魅力を感じる男性どうし、または女性どうしの関係をいう。これまで、同性愛者の性行為は本質的に乱れたものであるということが常に示されてきた。どのような状況にあってもそのような行為は認められない。

2358番 同性愛の傾向が根深い男女の数は、無視できないものである。この傾向は、客観的には乱れたものとされ、彼らの大半は非常に大変な思いをしている。彼らは、他者から尊敬と同情、そして思いやりをもって受け入れられなければならない。彼らに関するいかなる不正な差別の兆候も避けなければならない。

2359番 同性愛者は純潔を求められる。自制と祈りという美徳は彼らに内なる自由を説く。彼らは、他のキリスト教徒と同様に、キリスト者の完全に到達することが可能であり、到達するであろう。

1975年にローマ教皇は性道徳に関する宣言(Declaration on Sexual Ethics)を公布し、同性愛の項の中で次のように述べた。同性愛者は理解をもって対応されなければならない。彼らは自らの個人的な問題を克服して社会の一員となることを目指し、励まされなければならない。しかし、同性愛者による性行為に正当性を与えるようなやり方を用いることはできない。聖書では、同性愛者の性行為は深刻な堕落として非難され、神を拒んだが故の悲しい結末とさえされている。この聖書の見解は、当然ながら、この特異な性向に苦しむすべての人は個人的にその責任を負うと結論づけることを認めるものではない。しかし、それは、同性愛者の性行為は本質的に乱れたものであり、いかなる場合も認められないという事実を証明している。[#8]

結論として、完全に明確にしておくべきことが1点ある。反発が多いにもかかわらず、カトリック教会は同性愛者を非難せず、彼らの不自然で不健康な性行為を非難している。同様に、カトリック教会は不貞や姦通を犯す異性愛者は非難せず、代わりにその罪そのものを非難している。同性愛者は同じように扱われている。

同性愛に関するカトリック教会の教義は完全に明確である。すなわち、罪は憎むが、罪を犯す者を常に愛するのである。

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