高齢者と鎮痛薬?

ノボトニー • ジェリー OMI – 現在、高齢患者は世界の人口の中で最も急速に増加している。世界の65歳以上の高齢者数は、2008年時点では5億600万人と推定されていたが、2040年には13億人まで増加する見込みである。患者が高齢化すると、特定の疼痛症候群の発生率と有病率が高くなる。

痛みに関する疑問とその対処法について考えるべき時がきている。カトリック教徒は、人生の最期に近づいた際の痛みを緩和する薬の倫理について、多くの場合以下の3つの疑問を投げかける。

  1. その薬が意図せず人の命を縮める場合、その薬は使ってもよいのか?
  2. その薬が意識不明の状態を引き起こす場合、その薬は使ってもよいのか?
  3. その薬が完全に意識を失わせる場合、その薬は使ってもよいのか?

A)  人の命を縮める薬

1つめの疑問について、カトリック教では、深刻な痛みを緩和する鎮痛薬は、患者の命を縮めるとしても使ってよいと説いている。これは「二重効果」の原則の適用である。 第一に、故意に人の命を縮めることは罪深いことである。しかし第二に、薬の主な目的が深刻な痛みを緩和することであり、患者の命を縮めることではない場合、その薬を使うことは認められる。

治療の目的が二重効果の原則の鍵となる。治療の目的は、痛みを緩和することか、人の命を縮めることか?

カトリック教会のカテキズム(公教要理)では、次のように説いている。「死が差し迫っていると考えられる場合でも、病人に対する通常のケアをやめることはできない。死期が迫る人の苦しみを緩和するために鎮痛薬を使うことは、残りの日々を縮める危険性があっても、道徳的には受け入れられる。死が終焉または終焉を迎える方法とされている場合、その薬を使う目的は、人間の尊厳に準じたものである…緩和ケアは特殊な形の慈愛である。そのため、奨励されるべきである。」[2279番]

安楽死に関するローマ教皇の宣言は、この点をさらに明確にしている。「『麻薬を使用すると命を縮めると予測される場合でも、麻薬を使って痛みや意識を抑えることは認められますか?』と問いかけた医師団に対し、ローマ教皇[ピウス12世]は『はい』とお答えになった。 もちろんこの場合、死は決して意図されておらず、求められてもいない。目的は単に痛みを効果的に緩和することであり、この目的のために医薬として利用できる鎮痛薬を使うのである。」

(B)  意識を低下させる薬

意識を消失または低下させる薬の使用は、命を縮める薬の使用とはまったく異なる問題である。一般に、そのような薬の使用は認められる。

安楽死に関する宣言では、鎮痛薬は意識を低下させるとしても使用してもよい、としている。「人間の慎慮とキリスト教の慎慮では、病気を抱える人の大半は、痛みを緩和または抑制できる薬を、それらが意識を低下させることがあっても使用できる、とされている。自分で判断できない人については、その人がそのような鎮痛薬の使用を希望していると合理的に推定し、医師の助言に従って使用させることができる。」

つまり、医師は一般に、命をわずかに縮める、あるいは意識を低下させることがあっても鎮痛薬を使用することができる。特定の場合には、そのような薬が意識を完全に消失させるものであっても、自分の魂と神との出会いを適切に準備する機会が得られた人に使用することは賢明であるといえる。

(C)  マリファナその他の向精神薬

人生の最期を迎える際の痛みを和らげるためにマリファナなどの向精神薬を使用すべきだ、と考える人が増えている。そのような薬の使用については2つの懸念がある。

  1. 1つめは、使用した人が精神的にその薬に執着し、中毒を起こすまでになる可能性があるということである。向精神薬の使用は人生の最期に痛みを軽減するためという発想であるため、これは大半の人にはあてはまらない懸念である。
  2. 2つめの懸念は、そのような薬は脳の機能を変化させ、認知機能や気分、意識状態を変化させてしまう、ということである。大量に使用すると、幻覚を引き起こす。意識状態を変化させずに痛みを効果的に緩和できる薬はたくさんある。このような効果のある薬を使用する理由はない。

結論:痛みの緩和に関する倫理

カトリック教徒は、辛い痛みを軽減するために使用できる薬の程度を判断できる。大きな効果が得られない場合には、積極的な治療を見送ることもできる。もちろん、終末期の患者は家族や医師と相談し判断すべきである。

つまり、真の慈悲は「他者の痛みを分かち合うことにつながる。耐えがたい痛みを持つ人の命を奪うものではない。」[いのちの福音66番]

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