ノボトニー • ジェリー OMI – 聖ボニフェスは次のように述べた。「教会は人生のあらゆるストレスの波に打たれる大きな船のようである。私たちの務めは、船を見捨てるのではなく、船が道を逸れないようにすることである。」 これは、私たち一人一人が真実のために立ち上がり、弱者を守り、社会の邪悪な力に立ち向かう責任がある、ということである。
20年近く前、大司教ジョン・マイヤーは、司教教書を書いた。その中で彼は会衆に対し、罪なき人々の虐殺を終わらせるための私たちの戦いの基礎となるものを説いた。彼はこう述べた。「大半の人は、他者を殺すという考えには恐怖を感じるであろう。」 そのため、中絶、安楽死その他の人類に対する罪を支持することは、死を迎える人を非人格化することから始まる、と彼は説いた。そして、罪とあわれみは否定される。
彼のメッセージは、それが書かれた頃と同様に現在も的確であるが、胎児や障害を持つ者、高齢者の人間性を無情にも無視することは、現在のほうがはるかに重い罪である。
どのような中絶も、皆さんや私、そして皆さんの隣人と何も変わらない誰かの命を奪っている、というのが真実である。この真実を否定することは、人間の尊厳を認めないことにつながる。ヨハネパウロ二世は次のように書いた。「そのような死の文化が自由の概念を裏切るものであることは否定できない。それは弱者に対する『強者』の自由となるものである。弱者はおとなしく従うしかない。」
弱者へのあわれみは、殺人という大罪を支持することで否定される。中絶は医療である、単に風邪を治療するようなものである、と私たちは繰り返し言い聞かされる。
マスメディアの報道では、妊産婦がケアを受ける助産院は閉鎖が必要な偽の診療所であるとされている。このような診療所が何百万人という女性を支援していることが研究で示されているのに、メディアはどうすればこのように人をひどく欺くことができるのか、と皆さんは不思議に思うかもしれない。
真実、事実、現実に対する世界中のメディアの計り知れないバイアスを考えると、私たちはどうすべきか?現在でも新たな中絶が確認されている中、米国の大統領、米国は胎児に対する新たな活動という猛攻撃に直面するであろう。このような新たな活動はすでに始まっており、胎児の人間としての尊厳を否定し、存在する真実、事実、現実に関する政治的認識への希望を絶たせている。
では、そのような現実の公的な否定を前にして、私たちはどうすればよいのか?その答えには驚かされるかもしれない。
世界中で、国や家族、そして命の証明において強くなるために日々必要な助言のために祈る。
1つの細胞であろうと、この世に生まれ出る準備が整った9カ月の胎児であろうと、生物学的発育のあらゆる段階にある子どもの人間性を強調し続ける。
高齢者を守る能力のすばらしい進歩に重点を置き、病人や死が迫る人に、直接的な殺人を含まない、心のこもったケアを確実に行う。
私利私欲を捨てて他者を愛し、他者の幸福のためにキリストのような気遣いを示す。
ヨハネパウロ二世は次のように説いた。「神の存在の感覚が失われると、人や、人間の尊厳、人間の命の感覚も失われる傾向にある。そして次に、特に人間の命や尊厳の尊重という深刻な問題において、道徳律が組織的に侵害される。これによって社会において神の真理を悟る力が徐々に曇るようになる。
この曇りを解くのは常に希望である。神に感謝を。