(この記事は、「子どもたちへの戦争」を引き起こしている大人の強迫観念を明らかにするノボトニー 神父による継続中のシリーズの一部です。)
ノボトニー • ジェローム OMI – 今日、大人たちはいったいなぜ、生まれてくる前の子どもを殺したり、生まれてきた子どもの人生に消えることのない傷を残したりすることに執心しているのでしょうか?
世界中の子どもたちは、生まれてくる前の子どもであれ、生まれてきた子どもであれ、日々、大人たちによる言うに耐えない攻撃にさらされています。これらの攻撃は「人類に対する犯罪」に入ります。なぜかというと、大人たちは子どもたちを殺したり、一生消えない傷を負わせたりしているからです。過去20年間のどの時期よりも、今日、子どもたちは危険にさらされています。子どもたちは、親や保護者から世話されたり保護されたりするのでなく、危険な世界に引きずり込まれています。その世界における子どもたちの人生の旅路は、中絶による死という恐ろしい最初の妨害を受けることから始まるのです。子どもたちは、獲物を狙う世界市場から商品として見られています。医療研究センター、主要大学、政府の研究所、さらには化粧品会社などの大企業が、胎児の体の部位の購入を待ち受けています。堕胎された体の部位を売り買いすることは、10億ドル(数十億ドル?)規模の産業です。スコット・カーニーは新著『The Red Market』(訳者注:邦訳『レッドマーケットー人体部品産業の真実』講談社、2012年)の中で、もし自分の体が個々の部位に分解され、彼が言うところの “レッドマーケット”で売られるとしたら、約25万ドルの価値があると述べています。
生まれてくる前の子どもが運よくこの最初の障害を乗り越えたなら、2つ目の障害が待ち受けています。これは、しばしば「養子縁組詐欺」とか「違法な養子縁組」と呼ばれます。個人や団体が子どもを「不法に養子縁組」したり、養子縁組ということで子どもを「不法に捨てる」場合を指します。人間が関わる多くの悪事と同様、金儲けが基本的な原動力となっています。現時点での正確な統計を取るのは難しいです。しかし、政府の古い統計によると、「2005年にギリシャの裁判所が記録した養子縁組は603件で、前年比20%の増加だった。しかし、国の制度を通じて行われた養子縁組はそのうちの60件に満たない」とあり、世界のある地域では、養子縁組のなんと90%が違法の可能性があるということです。
今後の記事において、今日われわれが直面している「子どもたちへの戦争」の全体像を紹介していきたいと思います。私の第一の目的は、大人の世界に「警鐘」を鳴らすことです。なぜ大人たちは、お金のために子どもを殺したり、子どものいのちを利用しようと躍起になるのでしょうか?大人たちは、自分のために、自分の欲求を満たすために、子どもたちを商品に仕立て上げることがさまざまな危険を生み出していることに気づいているのでしょうか?堕胎天国である日本は、人口の3分の1を60歳以上が占めるという未来に直面しています。50年後には今の日本人はもはや存在しないであろうという予測さえあります。
本シリーズは、「子どもたちへの戦争(第1回):はじめにー「人類に対する犯罪」と題する今回の記事から始まります。2回目以降、子どもたちが遭遇する同じ戦争のさまざまな面を紹介していきたいと思います。
子どもたちへの戦争(第1 回) :はじめに ー「人類に対する犯罪」
子どもたちへの戦争(第2 回) :中絶:「ニュルンベルクを振り返る」
子どもたちへの戦争(第3回) :飢餓 ―「1800万人の飢え」
子どもたちへの戦争(第4回) :ポルノグラフィー
子どもたちへの戦争(第5回) :身体部位 -「胎児にとって最悪の悪夢」
子どもたちへの戦争(第6回) :養子縁組ローンダリング
子どもたちへの戦争(第7回) :強制的な物乞い – 「盗まれた命」
子どもたちへの戦争(第8回) :気候変動 -「OP25の前と後」
子どもたちへの戦争(第9回) :兵士たち(近日中掲載)
子どもたちへの戦争(第 10回):生きた胚の凍結 – 「人間か否か」
子どもたちへの戦争(第 11回):不法労働(近日中掲載)
子どもたちへの戦争(第 12回):売春(近日中掲載)
子どもたちへの戦争(第 13回):代理出産(近日中掲載)
子どもたちへの戦争(第 14回):麻薬密輸業者(近日中掲載)
子どもたちへの戦争(第 15回):沈黙(近日中掲載)
人生において私たちが選べる道は2つしかありません。人間の道か神の道かです。上記の話題の中に、神の手が見えますか?全く見えません。神は存在しませんーー>100%不在です。しかし、私たち人類の未来は、神を社会に戻し、神のリーダーシップに基づく世界を創造することにかかっています。そうしなければ、何百万人もの子どもたちに対するこの戦争は、次第に普通で当たり前のあり方になっていくでしょう。私たちの始まりを壊すことは、私たちの未来を壊すことです。これを理解するのはそれほど難しいことでしょうか。新約聖書の中で、イエスは私たちに、すべての子どもたちの生存、保護、希望を子どもが生まれた瞬間から保証するような「世界を造ること」の大切さを教えています。今こそ私たちは人生の意味を真剣に考える時です。わたしたちは今、正しい道を選ばなければなりません。この決断をするには、神が必要です。なぜでしょうか?真理はただ一つであり、他に行くべきところはないからです。人間の道は、上に見たような破壊と、言うに耐えない恐怖とをもたらすだけです。
どうすれば神の道を学べるでしょうか?その答えは実に簡単です。聖書を読み、学ぶこと。イエスとはどんな方で、あなたに何を求めているかを学んでください。多くの聖人の中でも、ブリンディシの聖ローレンスはその良いお手本です。彼は1575年から1619年までフランシスコ会のカプチンでした。彼は次のように述べています。「主の言葉は心の光、意志のかがり火であり、それによって多くの人が神を知り、神を愛するようになる。。。。それは悪徳に凝り固まった心に対する武器である。それは肉と世と悪魔に対する剣であり、あらゆる罪を滅ぼす。」
私は瞬時にこの言葉に目を奪われ、今ここに取り上げた問題をより深く見つめることになりました。私は自分自身に3つの質問をしました。第一:カトリック教会は今日の世界で実際に機能する「生きたしるし」となっているだろうか?第二:私たちの羊飼いは、子どもたちや生まれてくる前の子どもたちを含む自分の羊たちを実際に守っているのだろうか?第三:私は周囲の人々に真理の「生きた証し」となっているだろうか?これら3つの問いを考えれば考えるほど、新たな問いが生まれ、はっきりした答えは見つかっていません。
聖書の中で、イエスは私に個人的に語りかけてくださいます。私に対する愛と、この世でイエスのために特別な仕事をするように私を選んだということを。その仕事を成し遂げるためには、自分の十字架を背負ってイエスに従いなさい、出て行って実を結びなさいと言われます。イエスは、「恐れるな」と言われます。なぜなら、「私は道であり、真理であり、命である(I am The Way, The Truth and The Life)」からと。力強い言葉です。
「私はある」 (I am) は正に神の名です (出エジプト記 3章14節)。「道、真理、そして命」(The Way, The Truth and The Life)、と定冠詞 “The” によって、イエスはご自分が唯一つの道であることを強調しています(ヨハネによる福音書 14章6節)。
弟子たちは、いったんイエスのこの言葉を理解し信じたら、別人のようになりました。イエスの言葉が彼らの力の源泉となったのです。弟子たちは、神に似たものとして作られたことの意味や、神が自分たちに何を求めているのかを徐々に理解したのです。同様に、私も自分自身に問わなければなりません。私は神の似姿として作られたものとして生きているだろうか?私の人生はいのちを語っているだろうか?私はいのちを与える神の似姿の証しとなっているだろうか?この「神の似姿」は、私にとってどのような意味があり、私に何をしてくれるのだろう?私たちはイエスの言葉に細心の注意を払って、それが教会としての私たちに、またクリスチャンとしての私たち一人ひとりに、どのような意味があるのか、一緒に考えましょう。
「主の似姿」であるということに思いをめぐらし、今日の世界を見ると、利己的で自己満足の文化にどっぷり浸かっています。正確には、死の文化です。私たちはもはやいのちを大切にしていません。神を大切にしていません。私たちは神を追い出し、他の神々に置き換えてしまいました。私たちの世界が傷ついているのは、私たちが自分のアイデンティティを失ったからです。私たちのアイデンティティとは何でしょうか?クリスチャンにとって、また誰であれ善良な人にとって、唯一のそして真のアイデンティティがあります。幸せであるということです。私たちは神に似たものとして造られ、すべての点で神に似るように、幸せであるように造られました。悪は悲しみをもたらします。神がくださるのは喜びと幸せです。
地球上での私たちの時間は、実に短く、全力を注いで何らかの変化を起こすための時間です。そのための一つの方法は、日常的に「聖なる書物」に飛び込み、神の子であることの意味を学ぶことです。聖書にアンダーラインを引いたり、メモを書き込んだりすることを恐れないでください。主の言葉は生きています。あなたに語りかけてくれます。あなたが人生において正しい選択をし、正しい道を歩むように導いてくれます。
今、教会や私たちの周りで起こっていること、世界全体で起こっていることを見ると、少し怖い気がします。私たちは何をなすべきでしょうか?
イエスは『マルコの福音書』の4章で、私たちが何をなすべきかをはっきりと教えています。神が私たちに語っていることを探ってみましょう。【使徒たちはみな舟に乗っていて、主は艫のほうで眠っている。水の流れが激しくなり、荒れ狂っているので、彼らはいのちの危険を感じ始めている。彼らはイエスを起こして、「主よ、私たちが滅びても構わないのですか」と言った。イエスは、風を静めて落ち着かせた後、彼らに向かって、「なぜ怖がるのか。信仰がないのか」と言われた。】私たちがキリストを信じられるのは、キリストの真実、キリストの教えが客観的なもので、主観的なものではないからです。だとしたら → なぜ恐れるのですか?
要点は、私たちは誰でも何かを恐れていますが、主は私たちと共に舟に乗り、艫のほうで眠っていて、私たちに主を信頼するようにと求めているということです。あなたはどう応じますか?信頼しますか、それとも恐れますか?子どもたちのために戦いますか、それともサイレント・マジョリティ(物言わぬ多数派)の一員になりますか?イエスはあなたに問いかけています。「なぜ恐れるのか? 信仰がないのか?」と。
ノボトニー・ジェローム、OMI
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英語原文投稿:LifeIssues.net
翻訳日 2021年11月27日
翻訳者 西野 翠 / 大岡 滋子