
ブラッドリー ロザイロ、OMI ー 毎年、四旬節に私は同じ質問に直面します:何を諦めるべきですか?
私は祈りの中で自分の生活を振り返りながら、自己犠牲を実践する意味のある方法を探しますが見つからないのです。でも、四旬節だから「何かを犠牲にしないと」と思ってしまいます。そして、毎年繰り返しやっていることに戻ります。それは、40日間チョコレートやアルコールを口にしないことです。それは本当の断食でしょうか。そのような断食は、衝動と戦うので短期間神に注意を引くかもしれませんが、それだけでは十分ではないと思います。
神様が私たちに呼ばれる断食は、私たちの欲望を飼いならすことだけではいけません。 代わりに私たちは、自由を望み、助けなしではそれを見つけることができないように見える他の人々を見るように求められています。キリストにおいて私たちが受ける自由を、困っている人々に拡大するために今日私たちは何ができるでしょうか?自己中心的な断食から他人の生活を改善する行動にどのように移行できるでしょうか。
断食はただ食べないこと、食を断つことではないということを、改めて味わい直してみましょう。
黙想のために:イザヤ書58:1 – 9a:
(主は言われる。)喉をからして叫べ、黙すな 声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを ヤコブの家に、その罪を告げよ。彼らが日々わたしを尋ね求め、わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として、彼らがわたしの正しい裁きを尋ね、神に近くあることを望むように。何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし、お前たちのために労する人々を追い使う。見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし 神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食 苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと それを、お前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば「わたしはここにいる」と言われる。
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