敵を愛することは本当に可能でしょうか?

ノボトニー • ジェローム OMI – 「あなたは不可能なことをお求めになるお方ではありません。私のイエスよ、あなたはよくご存知ですが、私はあなたが愛するようには、人を愛することができません。もし、あなたが私の中のその人を愛しておられなければ。あなたの御心は、あなたが私に愛しなさいと命じられたすべての人を、私が愛することです。」(リジューの聖テレジア)

世界で道義を訴える偉大な人の一人、デズモンド・ツツ元大主教の逝去[2021年12月26日]からほぼ2ヵ月になります。南アフリカ共和国、ケープタウンで初めての黒人大主教として、アパルトヘイト人種隔離政策の撤廃に尽力しました。そして、人間性を奪うその差別のシステムがついに廃止されたとき、彼は南アフリカのすべての人々にとって平和な未来が実現するようにと、自国の白人と黒人の間に許しと和解をもたらすために働きました。

現代の独裁者とは対照的です。例えば、(1)ロシアのウラジーミル・プーチンは、ウクライナにおいてロシアが支援する分離主義者たちの2つの領土に軍隊を送るよう命じ、ウクライナ全土を征服するためのより広い軍事作戦の可能性をほのめかしています。プーチンは自ら、いわゆるドネツク人民共和国とルハンスク人民共和国を承認する政令に署名し、ロシア国防省にこれらの地域に軍隊を配備するよう指示したのです。ウクライナ侵攻を命じただけでなく、プーチンはロシアの核戦力を「特別警戒態勢」に引き上げました。この言葉は、西側が立ちはだかったら核兵器を使うという脅しを意味していると広く理解されました。しかし、ウクライナだけでなく世界各国が、いわゆる「共和国」をウクライナの領土以外の何物でもないと考えています。ロシアの侵攻と行動を非難する声は、世界中に響き渡っています。果たして、世界は立ち上がるでしょうか、それとも再び悪の支配を許してしまうのでしょうか。

(2)もう一人の現代型独裁者。中国の習近平による香港への暴行、台湾への軍事的威嚇、新疆ウイグル自治区に住むウイグル人やトルコ系イスラム教徒の人権を無視した行為。先頃、中国で開催された2022年冬季オリンピックでは、選手や監督、参加する人々に対し、共産党政権があらん限りの制限を加えていたことに、世界中が衝撃を受けました。中国とその人権侵害を批判しようとする者があれば逮捕すると脅しさえしたのです。悲しい結果になりました。世界中の民主主義国の人々、そしてアスリートやコーチが顔を伏せ、沈黙し、言われるがままに行動するのを、世界は目撃したのです。民主主義が共産主義に屈したのです。ああ! 未来の子どもたちに何という遺産を残すのか! 忘れないでください。オリンピックは国際的なスポーツの祭典であり、その究極の目的は、スポーツを通じて人間を育成し、世界平和と世界の向上に貢献し、世界の人々を団結させることなのです。

(3) 北朝鮮には、未熟な独裁者、金正恩がいて、日本上空から太平洋に向けてミサイルを発射し、アジアと世界の安定を脅かしています。まるで小さな子どもがおもちゃで遊んでいるようです。これは極めて危険なことです。なぜなら、万が一にも失敗や事故が起これば、アジアでの核戦争につながる可能性があるからです。ミサイルを使って敵(主にアメリカとその同盟国)を破壊するという彼のレトリックは、緊張の度合いを強めています。この弱い独裁者は神であると主張していますが、すべての資金を核開発に投入して、故意に自国民を飢えさせる神なのです。

人道に対する罪は、国際法上、最も重大な人権侵害のひとつと考えられています。「Break Quote taken from Their Lineage, Break Their Roots(彼らの血統を破り、彼らのルーツを破る)」という報告書に記述されている具体的な人道に対する罪には、国際法に違反する投獄やその他の自由の剥奪、特定できる民族や宗教集団に対する迫害、強制失踪、拷問、殺人、精神や身体の健康に大きな苦痛や深刻な傷害を意図的に与える非人道的行為、特に強制労働や性的暴力が含まれます。この他、「China: Crimes Against Humanity in Xinjiang(中国:新疆ウイグル自治区における人道に対する罪)」もご参照ください。

デズモンド・ツツ大主教の中に燃えていた正義感は、彼の人生に見られました。人々が平等、正義、愛について語るのを耳にするというのも一つです。しかし、日々の暮らしの中でそれらの価値を実践している人を実際に見たときに、私たちは注目し始めるのです。そのような人の話を聞き、そのような人について行きます。アパルトヘイトという人種差別政策が行われていた時代、若き日のデズモンド・ツツ氏は、イエズスを信じているからという理由で、彼に挨拶し、愛と敬意を示す白人の男性に出会いました。

キリスト者は、イエズスの言葉に耳を澄ませたいと思っています。もし私たちが、自分を愛し返してくれる人だけを愛し、自分に良くしてくれる人にだけ良くするのであれば、そこには何の高貴さも英雄性もない、というのはもっともなことです。イエズスの言葉の真理は、私たちの心に響きます。敵をも愛し、害をなす者にも善を行えるような人間になりたいと思わせてくれるのです。私たちは心の底から、人を許し、人を祝福し、無条件に愛する人になりたいと願っているのです。

しかし、イエズスの言葉を生きようとすると、人間としての弱さに直面します。赦したいと思っても、些細なことに恨みを抱き、ひどい偏見を持ってしまう。人に尽くしたいと思っても、自分が利用されることを恐れてしまう。プライドと恐れのために、イエズスの言葉に挑戦する人は少ないのです。そして、他の人がためらうのを見ると、自分もそうしたくなるのです。

イエズスの言葉を生きることは、本当に可能なのでしょうか? 敵を愛し、自分を憎む者に善を施し、自分を呪う者を祝福し、自分を不当に扱う者のために祈ることは本当に可能なのでしょうか? 自分を殴る者にもう一方の頬を差し出し、決して返せないとわかっている人にお金を与えることは可能でしょうか?

マルコによる福音書10章25節に、こうあります。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがやさしい」と。弟子たちは、「すると救われるのはどんな人だろう」と言い合った。イエズスは彼らに目をとめ、「人にはできることではないが、神にはできる。神にはできないことはない」と言われました。今日のウクライナの危機に置き換えると、問題の解決策、針の穴(ウクライナの危機)は、核戦争がなければ人間には通り抜けられないように見えます。しかし、神には不可能なことはないのです。

いくらイエズスの言葉を称賛し、その通りに生きようと思っても、私たち人間の心では不可能なのです。神の愛を知り、その愛を心に受けた者だけが、そのような無条件の愛を他者に示すことができるのです。神の赦しを経験した者だけが、回心して人を赦すことができるのです。自分がそのままの姿で神に受け入れられていることを知っている者だけが、隣人を裁くことなく愛することができるのです。自分の持っているものはすべて恵み豊かな神から来たものだと理解している人だけが、他の人に豊かに与えることができるのです。

詩篇3は、逆境のもとで神に信頼することを説いています初めてこの詩篇を読んだ時、メッセージはより多くの人に届いているように感じました。2度目はゆっくりと読み、人称代名詞の「私」を「私たち」に置き換えてみました。次に、ウクライナの人々と心を一つにして読み、私はこの詩篇を3度読みました。それで、神様が私に何を言っているのか理解できました。信頼とは、神に対する確固たる信念を意味します。詩篇には、「私たちが主に向かって叫ぶと、主は聖なる山から私たちに答えられる」とあります。マルコによる福音書では、「神はどんなことでもおできになる」と書かれています。私たちは本当にイエズスの言葉を信じているのでしょうか。もしそうだとしたら、助けを求める私たちの叫びが神には聞こえないかもしれないなどといえるでしょうか! 1日は1,440分あります。ウクライナ危機で私たちは何分、神に声を上げて助けを求めたでしょうか?

今日、私たちはイエズスと私たちへの愛に顔と顔を合わせて出会っています。もし私たちが愛し、赦し、神を信頼する人になるためには、ご聖体の中でイエズスが示してくださる模範に従わなければなりません。私たちは自分自身を小さくして、他の人への贈り物として自分自身を与えることができるようにしなければなりません。ツツ大司教の中に、妥協することなく福音を生きようとする人を見た多くの人々がそうしました。聖女マザー・テレサがカルカッタの街角で毎日行っていたこともそうです。この世界をキリストの愛によって変えたければ、私たちもそうしなければなりません。

私たちにもそうできるということをすべての人に思い起こさせるために、私たちは祈り、いのちの贈り物についての真実を広めるよう力を尽くします。聖ヨハネ・パウロ2世が教えてくださったように、「人間のいのちは、その愛が無限である神からの贈り物であるから貴重なのです。そして、神がいのちを与えるとき、それは永遠です」。

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英語原文投稿 2022年2月28日
翻訳日 2022年3月31日
翻訳者 西野 翠 / 大岡 滋子

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