子どもたちに対する戦争:「子ども向け」ゲイドラッグショーは「不適切」(パート11)

(この記事は、「子どもたちへの戦争」を引き起こしている大人の強迫観念を明らかにするノボトニー 神父による継続中のシリーズの一部です。)

ノボトニー • ジェローム OMI – 最近、あるスキャンダルが新聞を賑わし、ゲイコミュニティによる子どもへの信じられないような攻撃が浮き彫りになりました「ダラスゲイバーの『子ども向け』ドラッグショー」と題した記事が米国テキサス州で掲載され、子ども向けのドラッグショーを特集したのです。直ちに州議会議員は、こうした不適切な出来事から子どもたちを守るための法案を提出すると発表しました。「ドラッグショーは子どもの居場所ではない」と同氏は述べています。私の疑問は、「なぜ過去何年間も、ゲイコミュニティから子どもたちを守るために何もしてこなかったのか」ということです。執筆者のマイケル・ブラウン氏は、ドラッグクイーンが子どもたち(およびその親たち)に向けてパフォーマンスをする光景は、20年近く前からプライドパレードでよく見られることで、世間の反発はほとんどなかったと指摘しています。ゲイバーで行われる「ドラッグクイーンショー」は、ゲイコミュニティから発祥したもので、家族が子どもたちと一緒に「プライド月間」を祝うために生み出されました。 「ドラッグ」LGBTとは何でしょうか。ドラッグとは、個人が異なる性別に扮することです。ドラッグクイーンは男性なのでしょうか。「ドラッグクイーン」とは、通常は男性で、扮装用衣服とメイクアップを使い、娯楽目的で女性の性役割を模倣し、しばしば誇張する人のことです。現代では、ドラッグクイーンといえば、ゲイの男性やゲイカルチャーを連想させます。

以下の動画では、(1)ほとんど衣服を身に着けずに子どもたちの前で踊るドラッグクイーン、(2)背景に「It’s Not Going to Lick Itself」と卑猥な言葉が書かれた明るいピンクのネオン、(3)バーに座ってドラッグクイーンにお金を渡す幼い子どもたち、(4)子ども向けのイベントを主催するドラッグクイーンが自ら説明している様子が確認できます。

最近、LGBTコミュニティの中で過激さが増しています。特に、未成年者の性別変更を一般化するだけでなく、生物学的性は男性であるトランスジェンダーの人を「彼女」と呼ぶなど、「正しい」代名詞の使用を要求する事例が増加しています。また、子どもを対象としたドラッグクイーンイベントも増加し、ゲイの人々の受容を自然なこととして促すことを意図しています。

しかし、男性が演じる性的に誇張された女性キャラクターが、子どもにふさわしいとは決して言えません。このような活動は、フェイクメディアが描こうとしているような、論争的なものでもなければ、議論の余地があるものでもありません。科学で100%はっきりと分かっていることは、男性と女性は生物学的に異なるということです。神は理由があって男女を別々に創られたのであって、一方が他方になることはできないのです。世間がなんと言おうと、「男は男、女は女」なのです。これは、世界の始まりから変わっていません。

ゲイコミュニティに対する偏見を排除しようという当初の意図は、近年徐々に変化しているようです。マスメディアに受け入れられるようになった現在、ゲイコミュニティは受容から、男性と女性、大人と子どもの違いをなくすことにシフトしているように見えます。そして、このような不穏な傾向は、誤った教えを世界中に広め続けています。キャンディス・ジャクソン氏は、「『LGBTQプライド』は、反現実、反市民的自由の精神的カルトであり、空想に基づく身体犠牲の儀式のために子どもをターゲットにしている」と述べており、このことをうまく要約しています。

一般人からすれば、幼い子どもが大人のバーに立ち入り、警察は何もせず、現実にはそれを許しているというのは理解しがたいことです。これは、(警察かゲイコミュニティかを問わず)大人が、罪のない子どもたちに対して戦争を仕掛けていることに他なりません。子どもの心は、何が起きているのかを消化することはできません。その結果、男女の違いについて、混乱と誤った情報が彼らの心に浸透してしまいます。つまり、自分たちのセクシュアリティに疑問を投げかけているのです。

今の世の中で、子どもを守るために大人がしなければならない6つの基本的な義務とは何でしょうか。

1. 子どもたちを危険から守ること

2. 子どもたちに衣食住を提供すること

3. 子どもたちを経済的に支援すること

4. 安全、監督、管理を提供すること

5. 医療を提供すること

6. 教育を提供すること

子どものために境界線を設けるのは親の仕事です。親は、子どもを導き、しつけ、責任ある大人に育てるために存在するのです。子どもの親友になることは親の義務ではありません。その現代の考え方は非常に大きなダメージを与えます。子どもたちの心身の成長と安全のために「ノー」と言うことは簡単ではないかもしれませんが、やらなければならないことです。

これなくして、子どもたちには現実に基づいた真の未来はありません。これら6つの基本的な義務の適用を拒めば、親は子どもの生活、周囲、未来から神を排除することになります。子どもたちは、自分らしさを見つけるための真理に基づいた確固たる成長基盤を獲得することができません。この場合、彼らの知識は、ゲイコミュニティの誤った教えと自己満足に基づくものになります。

カトリック教会は、同性愛のライフスタイル、逸脱した性行為、同性愛傾向についてどのように教えているのでしょうか。

カトリック教会は、年齢、人種、国籍、性別を問わず、「人間の人格の尊厳は神にかたどり、神に似せて造られたことに根ざしている」(『カトリック教会のカテキズム』1700)と教えています。私たちの尊厳は、全人格の尊重を要求することを基本とします。聖ヨハネ・パウロ2世は、その深遠で歴史的な使徒的勧告『Familiaris Consortio』の中で、「子どもたちの個人的尊厳に対する深い尊敬と、彼らの権利に対する大きな尊敬と寛大な関心を育むことによって、子どもたちに特別な注意を払わなければなりません」(26)と述べています。

すべての人間は、神の子となるよう召されています。しかし、この贈り物を受け取るためには、同性愛の行為、つまり同性に対する性的反応を喚起または刺激することを意図した行為を含む罪を拒絶しなければなりません。カトリック教会は、そのような行為は常に神と自然の法則に違反するものであると教えています。

しかし、同性愛の欲望は、それ自体では罪にはなりません。人は、自分では直接抑制できないさまざまな罪深い欲望を持っています。しかし、人がその欲望を実行に移したり、欲望を助長したり、それを実行するための空想に意図的に関与することによって、初めて罪深いものになるのです。

同性愛行為への非難、同性婚への反対、同性愛者による養子縁組への反対など、同性愛に対する教会の伝統的な立場は変わっていません。

聖書からの抜粋

旧約聖書のさまざまな文章に見られる同性愛行為の否定はよく知られています。創世記19章では、旅人に扮した二人の天使がソドムの町を訪れ、ロトからもてなしと庇護を受けます。その夜、ソドムの男たちは、客人を引き渡し、同性愛行為をさせるよう求めます。ロトはこれを拒否し、天使はソドムの男たちの目をつぶしてしまいます。ロトとその家族は逃げ出し、「彼らの叫びが主の前に大きくなり」(創世記/19章13節)、町は火で焼き払われます。

ユダの手紙7節には、ソドムとゴモラは「淫行にふけり、異なる肉におぼれ」と記録されています。 エゼキエル書には、ソドムは「おごり高ぶり」(エゼキエル書/16章50節)を行ったとの記述があり、これは同性愛や異性愛の罪の行為を指していると言えます。ロトは客人の代わりに二人の処女の娘を差し出しましたが、ソドムの男たちは異性間行為よりも同性間行為を好み、その申し出を拒否しました(創世記/19章08-09節)。しかし、旧約聖書で同性愛が扱われているのは、ソドムの出来事だけではありません。レビ記には、「おまえは、女と寝るようにして、男と寝てはならぬ。それはいまわしいかぎりのことである。」「また、女と寝るように、男と寝るものは、二人とも、恥ずべき行為をしたのであるから、死にあたり、その血は彼らの上にふりかかる。」(レビ記/18章22節、20章13節)と、明確な非難が書かれています。

カトリック教会のカテキズム:貞操への召命

同性愛を肯定する現代の議論は、聖書や教会、そしてユダヤ教やキリスト教(イスラム教は言うに及ばず)の広範な作家たちが常に抱いてきた、同性愛行為が神と自然の法則に反するという証拠を覆すことはできません。

カトリック教会は次のように教えています。 「同性愛の行為を重大な堕落としている聖書に基づき、聖伝はつねに『同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの』であると宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背くものです。これは生命を生み出すはずのない性行為です。真の感情的・性的補完性から生じるものではありません。どのような場合であっても、これを認めることはできません」(『カトリック教会のカテキズム』2357)。

「同性愛的な傾向を持っている人々は貞潔を守るよう招かれています。内的自由を培う自制の徳によって、時には友人の献身的な助けのもとに、祈りや秘跡の恵みによって、少しずつではあっても確実にキリスト教的完全さに近づくことができるし、またそうしなければなりません」(『カトリック教会のカテキズム』2357-2359)。

パウロは、新約聖書で次のことを思い出させてくれます。「あなたたちは人の力を超える試みには合わなかった。神は忠実であるから力以上の試みには合わせたまわない。あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも、ともに備えたもうであろう。」

結論

私たちは悪に堕ちた世界に生きています。児童労働、身体的虐待、児童搾取、児童婚、子ども向けゲイドラッグショーは、現在子どもたちが直面している課題の一部に過ぎません。その他、薬物やアルコール依存症、いじめ、暴力団との関わりなどがあります。

子どもたちや社会を守るために、神は欠かせない存在です。神への愛の延長として、キリスト教徒は、害を及ぼす者から子どもたちを保護しなければなりません。私たちの中には、さらに神から、子どもの保護プログラムや組織の専門家として活動するよう召命を受けた人もいます。しかし、専門家であるかどうかにかかわらず、私たちは皆、子どもを「ドラッグクイーン」やゲイに対する誤った考え方から守ることができるのです。

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

Leave a Reply