この人を介抱してください」シノドスの精神にかなう、いやしの実践としてのあわれみの心
病は、人間である以上わたしたちの経験の一角を占めるものです。しかし、ケアやあわれみがなく、隔離され放置されたままであるならば、それは非人間的なものとなるでしょう。一緒に歩んでいれば、体調を崩したり、疲れや想定外のことで途中で動けなくなったりする人がいるのは当たり前のことです。そういうときにこそ、わたしたちは自分の歩みを確認できます。つまり、本当に一緒に歩んでいるのか、それとも同じ道にはいても、それぞれ、自己の利益を優先し、ほかの人には「自分でどうにか切り抜けて」もらって、わが道を行っていないかということです。ですから、シノドスの旅の真っ最中のこの第31回世界病者の日に、皆さんによく考えてみてほしいのは、まさに虚弱さや病を知ることで、近しさ、あわれみ、優しさという神の流儀をもってともに歩むことを学べるのだ、ということです。
回勅『兄弟の皆さん』は、ご存じのように、よいサマリア人のたとえ話を新たに読み直しています。わたしはこのたとえを、「閉ざされた世界の闇」から抜け出し、「開かれた世界を描き、生み出す」ための軸として、転換点として選びました(56参照)。実際、このイエスのたとえ話と、今日、友愛が否定されている多くの状況との間には、深いつながりがあります。なかでも、虐げられ身ぐるみはがされた人が道端に打ち捨てられている様子は、あまりに多くの兄弟姉妹が、もっとも助けを必要としているときに置かれる状態を表しています。いのちと、その尊厳に対する攻撃のうち、どれが自然な原因によるもので、どれが不正義や暴力によるものかが区別しにくくなっています。実際、著しい格差と少数者による利益独占は、すでに人間環境の隅々にまで影響を及ぼしており、どんな経験も「自然なこと」とはいえなくなっています。すべての苦しみは、一つの「文化」の中で、そこにあるさまざまな矛盾の中で生じているのです。
ともかく、ここで重要なのは、孤独な、見捨てられている境遇を認識するということです。その残忍さは、他の不正義よりも先に克服しうるものです。たとえ話にあるように、その根絶に必要なのは、目を向ける一瞬、つまりあわれみという心の動きだからです。宗教者とされている通りすがりの二人は、負傷した人を見ても立ち止まりません。一方、三番目の人物であるサマリア人は、侮蔑される側の人なのに、あわれみに心動かされて、道端の見知らぬ人を介抱して、兄弟同然に接しました。そうすることでその人は、意図せずに変化をもたらし、世界をより友愛あるものにしたのです。
兄弟姉妹の皆さん。わたしたちは、病気に完全に備えておくことなどできません。年を取ることすら、受け入れられない人も少なくありません。脆弱さを恐れ、市場原理の支配する文化によって脆弱さを否定させられます。弱みを見せるわけにはいきません。そのため不幸に襲われ痛めつけられると、わたしたちはただぼう然とするのです。そうなると、他者から見捨てられてしまったり、また、他者の負担にならないよう、自分のほうから離れなければならないと思い込んでしまったりします。こうして孤独が始まり、わたしたちは、天さえもが閉ざされたと思えるような不正義に対する苦しみに毒されてしまいます。確かに、他者との関係、自分自身との関係が壊れてしまうと、神との平和を保つことが難しくなります。だからこそ、病についても、教会全体が真の「野戦病院」となるために、よいサマリア人の福音的模範に照らして自らの歩みを判断していくことが非常に重要なのです。わたしたちが今まさに経験している歴史的状況において、教会の使命は、まさしく、ケアの実践に表れます。わたしたちは皆、もろくて弱い存在です。立ち止まり、近づき、介抱し、起き上がらせる力のある、あわれみの心で注意を向けてもらうことを、皆が必要としています。ですから病者の置かれている状況は、無関心を打ち破る呼びかけであり、姉妹や兄弟などいないかのように突っ走る人々に、ペースを落とすよう訴えるのです。
世界病者の日は、実際、祈りや、患者への寄り添いを呼びかけているだけではありません。併せて、神の民と、医療機関と、市民社会の、ともに歩むための新しい道についての意識向上も目的としています。冒頭に引用したエゼキエルの預言は、経済的、文化的、政治的支配者層が優先するものへの、実に辛辣な裁きも含んでいます。「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物をほふるが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。(34:3-4) 神のことばは、つねに照らしとなり、時宜にかなうものです。非難だけでなく、提案においてもそうです。事実、よいサマリア人のたとえ話の結末は、顔を寄せた出会いから始まる友愛の実践が、どのようにすれば機能的なケアに拡大できるかを示唆しています。宿屋、宿屋の主人、お金、状況を知らせ合う約束(ルカ10・34-35参照)――、このすべてが、司祭の奉仕職や、医療従事者やソーシャルワーカーの働き、家族やボランティアの献身を思い起こさせます。こうした人々のおかげで、毎日、世界各地で、善が悪に立ち向かえるのです。
パンデミックの数年に、わたしたちの間で、医療やその研究のために日夜働いている人々への感謝の思いが強まりました。ですが、これほどの大規模な集団的悲劇から抜け出すには、英雄たちをたたえるだけでは不十分です。新型コロナウィルス感染症(COVID-19)は、専門技術と連携が生み出すその優れたネットワークを厳しい試練にさらし、既存の福祉制度の構造的な限界を明らかにしました。ですからその感謝の気持ちを、各国での保健政策と資源の積極的な追求につなげ、すべての人が医療を受け、健康を求める基本的権利が保障されるようにしていかなければなりません。
「この人を介抱してください」(ルカ10・35)――、これは、サマリア人から宿屋の主人への依頼のことばです。イエスはこれを、わたしたち一人ひとりにも繰り返し語り、最後には「行って、あなたたちも同じようにしなさい」と勧めておられます。『兄弟の皆さん』で強調したように、「このたとえ話は、……益が共有されるよう、他者の弱さを自らのものとし、排除する社会を作らず、かえって隣人となって倒れた人を起き上がらせて社会に復帰させる人々から成る共同体を再構築できるイニシアティブを示しています」(67)。まさしく、「わたしたちは愛においてのみたどり着くことのできる充満のために造られた、ということです。他の痛みに無関心で生きるという選択はありえません」(68)。