ブラジルへの宣教

硫黄 隆二 神父, OMI – 1964年6月14日(日)徳島教会で故田中英吉司教様から司祭叙階式を受け、高知県赤岡教会に赴任した。そして翌年1965年ローマの総長から依頼があって、ブラジル、サンパウロのスザノ教会に就任した。5年間の契約予定であった。スザノ市はサンパウロ市から自動車で約1時間の距離にあり、当時、市の人口は約35,000人であった。その中15,000人程の日本人がいて、畑で野菜をつくったり、養鶏業をしていた。一家で10万羽の鶏をかっていた家もあった。

オブレート会がこの市に宣教するようになって、カペラ(巡回教会)であった教会はプラサ(公園)の中心に300人程集まることの出来る教会が建てられて行き、カペラ(巡回教会)も5つほどつくられた。又、自動車で半時間程の所にAmerican Schoolがつくられ、アメリカ人Sisterが働くようになった。スザノ教会にはアメリカ人オブレート会司祭3人が常住し、日曜日にはサンパウロ市のオブレート会本部から援助に来るようになった。私はこのスザノに呼ばれたのでした。

1965年8月10日、サンパウロ空港に着き、先づサンパウロの本部に行き、9月から始まるポルトガル語の勉強にそなえました。サンパウロから3時間程かかる ポッソス デ カルダスのオブレート会小神学校に行き、翌年3月までポルトガル語の勉強をしました。日曜日には近くのカペラでミサをささげました。そして、6ヶ月のポルトガル語の勉強を終えて、スザノ教会に就任したのです。スザノの新聞には次の様に書かれました。

 

“Benvinda do Padre Joao Iwo ao suzano”
「パードレ ジョアン イオウ ようこそ スザノへ、

1) スザノ教会での宣教、当時は第2バチカン公会議の前であったので、ミサ前の断食は夜半12時から水さえも飲めないのでしたが、その後3時間前までの断食に変更されました。又、告白の秘跡を受ける人が列を作りました。スザノ教会では日曜日には6回のミサが行われ、私は午後3時に日本語のミサをしました。毎日曜日、午後1時から約15人の幼児洗礼が行われました。結婚式は毎週土曜日午後1時から30分の間隔で4時30分まで行われた。葬儀はどのくらいあったか覚えていません。

2) 予定の5年が終る頃、アイルランド系の修道会にスザノ教会を引き渡すことになり、私は一応日本に帰り、3ヶ月後に再び渡伯し、シダデドットラ教会に移転しました。サンパウロの湖の南側です。スザノは湖の北側でした。日本人も多く入植していました。2年後、ローマから総長が来られ、私は長く続けていくかどうか決めなくてはならなかったので、帰国することにして、1972年帰国し、伊丹教会に就任しました。ふりかえってみると、この7年間、何の事故もなく、人々に助けられながら過ごせたことを心から神様に感謝しています。

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