ブラッドリー ロザイロ、OMI ー ご受難の記述ではイエスが弱り果てて十字架を背負うことができなくなった時に、通りかかったキレネ人のシモンという人が代わりに運ばされたとあります。このシモンがたまたまそこにいて通りかかっただけの被害者であるということ以外の詳細は私たちには知らされていません。これは彼が計画したことでもすすんで志願したことでもありません。十字架を背負うイエスを手助けするシモンが感じたことは、おそらく望まない、不愉快な感情であり、それは理不尽でついていない出来事だったに違いありません。皮肉にも、これは彼の人生全てにおいて最も重要な出来事になったのです。
キレネ人のシモンはイエスの受難と死のドラマの中心的存在でも有意性を持つものでもありません。この物語が彼を巻き込み、地味で控えめな、しかし必要であった役割を演じた時に、出来事の端にたまたま立っていた重要ではない人物でした。彼自身の予定や計画は犠牲にされなければならなかったし、彼の反応は喜んで、ということではなかったことは間違いありません。しかし、この予定外の、卑しい強制労働が彼の行いの全てにおいて最も重要なこと、代表的行いとなり、何千年も何万年もの時を超えて彼を歴史の人とし、ドラマの中で重要とみなされる地位に置かれたのです。
純然たるこの世の出来事がしばしば神に対する責任を私たちに負わせ、私たちを真の働きへと召集するのです。
黙想のため:
どのようにすれば私たちはイエスの十字架を運ぶのを手伝ったキレネ人のシモンになれるのでしょうか? イエスの十字架は様々な形で現れます。
あなたがたまたま近くに住んでいるからということで、年老いた親のお世話をただひとりでしなくてはならなくなった時、
あなたが障害を持つ子供の親で、普通の親なら要求されないようなことをするように要求された時、
あなたが職場で精神的な支えを必要とするひとから救いの手を求められた時、
あなたがその優しさゆえにあなたを利用する人々にたいしてノーと言うことが困難な時、
あなたの人生が望まない状況により混乱させられるとき、あなたはイエスの十字架を背負ったキレネ人のシモンなのです。











