不当な行為:私たちはどのようにすれば平和の道具となれるのか?

ノボトニー • ジェリー OMI – 1994年、ルワンダという国が人種間の暴力によって引き裂かれた。フツ族が少数民族のツチ族を容赦なく虐殺したのである。一般大衆がなたを武器にして隣人を殺したことを、世界は恐ろしく信じられない思いで見つめていた。

残念ながら、人種間の暴力はルワンダのみにとどまらなかった。それはすぐに近隣国であるブルンジにも広まった。

1997年4月30日、フツ族の男たちがブルンジのブタにある神学高校を襲撃した。まだ学生たちが眠っている早朝のことであった。彼らは、最初の襲撃で36人の学生と8人の学校スタッフを殺害した。その後、彼らは残りの学生を集め、部族ごとに分かれるよう命令した。彼らの目的は、ツチ族を殺せるようにフツ族とツチ族を分けることであった。しかし、学生たちはそれを拒絶した。フツ族の学生たちはツチ族の仲間のそばを離れようとしなかった。襲撃者が、従わなければ皆殺しにすると脅しても、彼らは離れることを拒絶した。そして、襲撃者は言葉通りに学生たちを皆殺しにした。

民族への激しい憎悪や暴力に際し、この若者たちは、愛のため、許しのため、そして平和のために立ち上がった。

彼らの行為による信仰の証明は、人種間の憎悪、少数派に対する不当な行為、そして社会の分断がなお数多くみられる現在の世界に切実に必要とされている。

キリストの信者として、私たちはあらゆる人種、あらゆる国、あらゆる言語、そしてあらゆる文化を持つ人々が神のかたちに、神に似せて造られていると信じている。イエスは、信仰、生き方、教育水準を問わず、あらゆる人を救うために死を迎えた。神の愛が得られない人はいない。キリスト教徒として、私たちは世に出て、憎しみのあるところに愛をもたらし、復讐心のあるところにあわれみをもたらし、争いのあるところに平和をもたらすことを使命としている。

聖書では、カナンの女がイエスに近づき、娘の病を治すよう懇願する場面がある。カナンの人々は、イエスを見て自分たちの土地を占領するのではと疑い、憤った。それにもかかわらず、この女は、信仰心の強さから、自分自身の先入観に目をつぶり、イエスのもとへ助けを求めに行った。彼女の信仰心に動かされたイエスは彼女を助けた。

福音を通して、イエスが自身のユダヤ信仰という境界を超えて人々に手を差し述べていることがわかる。彼はローマの百人隊長の召使いを救った。彼はスカルという町の泉でサマリヤの女に話しかけた。そうすることで、彼は弟子に、そして私たちに、救いはあらゆる国のすべての人に向けられるものであると説いたのである。

私たちはどこから始めればよいだろうか?私たちは、非常に根深い分断があり、生々しい痛みがあるとき、どのようにすれば平和や和睦の道具となり得るだろうか?

祈りから始めればよい。癒しと和睦は神のみから得られるものである。神のみが敵を許し、互いに愛し合うことさえも可能にする。カナンの女がイエスのもとへかけ込んだように、私たちは日々同じ辛抱強さをもって祈りの中で神に向かい、私たちの世界に平和をもたらしてくださることを願わなければならない。私たちは、分断されたこの世界を癒すよう、絶えず祈らなければならない。

私たちができる小さな行動もある。市場で出会う自分とは別の人種の人に「こんにちは」と親しげに声をかけることで、相手を喜んで受け入れることを伝えることができる。友人と話しているときには、移民が全社会の問題のために非難されていれば声を上げることができる。そして、機会があり、適切な場合は、デモや抗議に参加して、声なき人々の声となることができる。

イエス・キリストの信者として、私たちには1つの使命がある。それは、例外なく他者を愛することである。私たちの使命は、分断と憎しみの壁を独りでのり越えることのできるイエス・キリストへの信仰をすべての人々にもたらすことである。

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