オブレート会に導かれて

パート1 -「終生誓願式 ―弱さを通して―」 

Bro. 八木 信彦 OMI ー  1991年8月3日の深夜のことです。終生誓願式を翌日に控えてなかなか寝付けません。いよいよ明日から正式なブラザーとして、私の人生は始まるのかと思うと、どう考えてみても、私の弱さや欠点から、ブラザーとして歩むことなどありえないと思い始めてくるのです。その日まで、翌日のために準備してきたのに、一日前になって自信がなくなってきました。こんな私のままでは、ブラザーとしての生活は無理だと、真剣に迷い始めてきたのです。式を翌日に控えているのに、「今から逃げよう」「このまま行方不明になってやろう」「そうすれば明日の式は中止になり逃げられる」と真面目に考え出したのです。悶々とした中、時計を見るともう深夜2時が過ぎていました。翌日は大切な式なのに、こんな状態でどうするのか、と思えば思うほど眠れないのです。

そんな時でした。どこからともなく、私の内面からだったのかもしれませんが、女性の声で次のような言葉、メッセージが、はっきりと聞こえてきたのです。「私はあなたの弱さや欠点が好きで好きでたまりません。大好きです。私はあなたの弱さや欠点を通して神様を表していきたい」それを聞いた途端に、この弱さや欠点を持ったままでいいのだと心底思え、心からの安堵感を覚え、全身麻酔が効いたかのように、即、眠りに陥ってしまったのでした。そして翌朝を迎え、無事終生誓願式に臨み、現在に至っています。

それにしても、弱さや欠点を通して神様を表していく、とはどういうことなのでしょうか。あの日から30年以上が経ち、時々、このことについて考えてきました。今ようやくこの意味がわかるようになってきました。悟りを得たというのでしょうか。結論から言うと、人には弱さや欠点がなければいけないのだと思います。それらは人間にとって必要不可欠なものです。もしそれがなければ、何でも自分の力でできるという傲慢が、自分自身を支配占領していきます。神さまと繋がること、委ねることを忘れ、私自身の中はこの自分自身の力というものに占領され、神様が私自身の中に入ってくる余地やスペースがなくなります。自分の中心は全て自分自身となります。しかし、弱さや欠点があることで、自分自身ではどうしようもない出来事が起き、為す術がなくなると、神様に繋がること、委ねることの大切さを思い出します。そういう弱さ、欠点の中に神様が入って来られ、限られた自分自身の力以上のものが実現し、神さまの栄光を表していけるのです。このことが、自分の弱さや欠点を通して神様を示していくということだったのです。

あの時、自分自身の弱さや欠点を心底受け入れられたと実感しました。それはつまり、私のありのままの自分自身が心底受け容れられたという体験です。それは自然体で生きられるきっかけとなりました。同時に他の人の弱さや欠点を受け容れたいとさえ思うようになりました。人からよくあなたは他人に対して甘すぎるとよく言われます。確かにそうだと思います。でも、他者の弱さや欠点を受け容れる者でありたいと願っています。それは私の弱さ、欠点を心底受け容れてもらえた経験と心からの感謝から、そう願うのです。

パート2 -「母 ―命をくれた人を通して―」

母の遺影をこの写真にしました。この時のエピソードは、桜が満開の時期、徳島県のある場所に桜のトンネルができるという花見で有名な場所に、母に満開の桜を見せたくて連れて行きました。すでに大勢の人が来ていて、桜のトンネルの道は人でいっぱいでした。そこに来ている人たちは皆、満開の桜を見るために上を眺めながら、その美しさに見とれています。その中で1人だけ、下の道端を一生懸命見ながら行く人、それが母でした。せっかく花見に来たのに、どうして桜を見ないのかと聞いたら、道端に生えている野蒜を探しているとのこと。この野蒜はネギのようなもので、刻んで卵とじにするととても美味しいものですが、あまり人には知られていません。この写真の母の笑顔は、きれいな桜の花を見た喜びというよりも、野蒜を見つけたことの喜びだったのでしょう。でもこの母の行為が、後に意味を持ってくることになります。それについては後述します。

母は時間があれば、朝から晩まで、作業しながらでも、ロザリオを唱える人でした。一冠を唱えれば小一時間かかるそのロザリオの祈りを、何十冠も一日に唱えていました。ロザリオはマリア様に捧げる祈りですが、母のそういう姿は、神様に全面的に委ねている姿勢でした。マリア様を慕っていた母は、社会の片隅に追いやられた人々に対して特に優しかったと思います。母の末の弟さんは障害を持っていて、長年施設で暮らしていましたが、そういう弟さんをとても大事にしていました。世の人々は豊かな生活を目指して、より良い地位、給料、財産のために向上すること、上を目指して常に生活していますが、母はその方向とは違って、末端の人々、脚光を浴びない人々、隠された存在をとても大事にする人でした。このことが先ほどの花見の時の出来事に通じます。人々はきれいな花を見るために、上を向いてそれに感動していますが、母だけは、そのきれいな桜に見向きもせず、下の道端に生えている名もない野蒜を一生懸命探して、それを見つけて喜んでいたのです。

私がオブレート会に入ってブラザーになったのは自分自身で決心し、選んでこの道を歩んできたと思っていました。でも実はそうではなかったのです。オブレート会は、最も見捨てられた人々に、キリストの善き知らせ(福音)を告げるという精神を大事にし、全てを無原罪のマリア様に捧げる修道会です。母が、ロザリオの祈りを通してマリア様に全てを捧げていたこと、また、多くの人々は、より高い地位や豊かさを求めて上を目指しますが、下を眺めて末端の名もない草や人々を大事にしていたこと、まさにこの母の生き方、姿勢が私の人生にも強い影響を及ぼし、オブレート会入会とブラザー志願に繋がったのだと確信しています。そのことにようやく気づかされました。

晩年の母は、今までできていたことが段々できなくなり、記憶力や容姿も衰えてきました。それで母としての価値が下がるのかと言うと、全くその逆で、ますます価値が高まってくるのです。それは、そこにいてくれるだけでどれだけありがたいか、という存在の価値です。母が笑ってくれるだけで、力を得て、慰められて、励まされて、希望が出てくる。そういう、いてくれるだけでありがたい存在の価値は、年齢や老化と共にますます高まってきます。これは母や高齢者だけではなく、老若男女全ての人に言えるのだということを、晩年の母が教えてくれました。存在しているだけで価値があり、そこにいてくれるだけで尊く、周りを力づける不思議な何かを与える、それを「存在の奉仕者」と言うのだそうです。

人は死ぬと、お空の彼方遠くへ行ってしまうようなイメージがありますが、実は逆で、場所や時間に関係なく、すぐそばにいてくれる、そんな存在に生まれ変わるのだと思います。母も亡くなり、今までは、老人施設や病院に行かなければ、その母の笑顔に触れられませんでしたが、今は時空を超えて、常に私たちのそばにいて見守り、慰めや励まし希望を与え続けています。生前とは違った「存在の奉仕者」に生まれ変わり、その役割が完成され、永遠に成し遂げられていくのでしょう。それを「復活の信仰」「永遠の命」と呼ぶのかもしれません。

母の生と死を通して、大切な何かを学ばせてもらいました。何よりも母は「私に命をくれた人」でした。

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