地球は祭壇― 京都の寺院から受けた霊的な気づき

ペレラ • タランガ, OMI ー  最近、京都を訪れる機会がありました。美しい寺院を巡りながら、私の心に深く残ったことがあります。それは建物そのものではなく、寺院と自然が見事に調和している姿でした。

寺院は自然を支配するように建てられているのではなく、まるで自然の一部としてそこに存在しているように感じられました。何百年もの歳月を重ねた木々、苔むした石、静かに流れる水、四季折々に姿を変える庭園。そのすべてが、単なる景観ではなく、祈りへと人を導く大切な要素となっていました。

その光景を見ながら、私は一つの問いを抱きました。

「カトリック教会も、創造の世界との調和を、もっと豊かに表現できるのではないだろうか。」

これは他宗教を模倣したいという思いではありません。むしろ、聖書と教会の伝統の中にすでに存在している「創造の神学」を、もう一度見つめ直したいという思いから生まれた問いです。

    聖書が語る創造の世界

聖書は創世記から始まります。神は天地を創造され、一つひとつの創造の業をご覧になって、「それは良かった」と言われました(創世記1章)。

そして神は人間に、

「主なる神は人をエデンの園に置き、それを耕し、守るようにされた。」(創世記2章15節)

と命じられました。

私たちは自然の所有者ではありません。神から託された世界の管理者(スチュワードシップ〈Stewardship〉)です。神から委ねられた被造物を大切に守り、育み、次の世代へ受け渡していく使命を与えられています。

さらに詩編は、

「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」(詩編19編2節)
と歌います。

つまり、自然そのものが絶えず神を賛美しているのです。

また、聖パウロはローマの信徒への手紙で、被造物全体が神の救いの完成を待ち望んでいると語っています(ローマ8章19〜22節)。

このように聖書全体を通して見ると、自然は単なる背景ではありません。被造物は神の救いの計画の中にあり、創造主を賛美する存在なのです。

    現代の教会への問いかけ

しかし現代の教会建築を見渡すと、私たちは少し違う方向へ進んでしまったのではないか、と感じることがあります。

もちろん都市化や土地の制約、建築技術、費用など、さまざまな事情があります。しかし、多くの教会はコンクリートやアスファルトに囲まれ、自然とのつながりを十分に感じられない空間になっていることも少なくありません。

もし被造物が神を賛美しているのであれば、教会はその賛美をさらに豊かに響かせる場所になれるのではないでしょうか。

    『ラウダート・シ』が示す道

長い年月を経て、教皇フランシスコは回勅『ラウダート・シ』(Laudato Si’)を世界に与えてくださいました。

この回勅は単なるエコロジー(Ecology)や環境問題についての文書ではありません。それは、神の創造を新しい目で見つめ直し、人間が本来与えられた使命を思い起こさせる霊的な招きです。

私たちは環境を守るからクリスチャンなのではありません。

神がお造りになった世界だからこそ、それを愛し、守るのです。

    地球は祭壇

イエズス会士(Jesuit)の神学者であり科学者でもあったピエール・テイヤール・ド・シャルダン(Pierre Teilhard de Chardin)は、「地球そのものが祭壇である」と語りました。

この言葉は、世界そのものが聖体祭儀へと結ばれていることを示しています。

私たちは毎回のミサで、大地が実らせたパンとぶどう酒を神におささげします。それらは人間の労働だけではなく、大地の実りでもあります。

つまり、聖体は人間だけのささげものではありません。被造物全体がキリストによって父なる神へとささげられている神秘なのです。

だからこそ、私は京都で寺院を訪れながら考えました。

教会はもっと自然とともに祈る空間になれるのではないでしょうか。

    小さな一歩から

大きな建築計画は必要ありません。

一本の木を植えること。

教会の庭を祈りの場として整えること。

地域にもともとある木々や植物を大切にすること。

鳥のさえずりや風の音、水の流れを神からの贈り物として受け止めること。
四季の美しさを典礼や教会生活の中で味わうこと。

そのような小さな積み重ねによって、教会は自然とともに神を賛美する場所になっていくのではないでしょうか。

    おわりに

京都で受けた感動は、日本文化への憧れだけではありませんでした。

それは、私自身がキリスト者として、創造についてもう一度深く考えるきっかけとなりました。

実は、私たちは新しい思想を探す必要はありません。

聖書は最初から創造の尊さを語っています。

教会は二千年にわたり、被造物が神の愛のしるしであることを教えてきました。

そして『ラウダート・シ』は、その教えを現代の世界へ新たに響かせました。

もし被造物が今も絶えず神を賛美しているのであれば、教会はその賛美の声がさらに豊かに響く場所であるべきではないでしょうか。

教会は自然から切り離された存在ではなく、創造主への賛美へとすべての被造物を招く場所です。

私たちは創造の世界の主人ではありません。

神から託された管理者(スチュワード〈Steward〉)です。

その使命を果たすとき、教会は建物である前に、神が「良かった」と言われたこの美しい世界とともに祈る共同体となるでしょう。

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